最前列左から柳川、西山広喜やまと新聞社会長、久保木修己勝教連合会長、大山倍達極真会館館長。ソウルの国立墓地にて

あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

在日として生き、日韓の間に立った男
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人呼んで、殺しの柳川——。大阪の在日社会で身を立てた柳川次郎は、最恐軍団・柳川組の初代組長として、過去、幾度も仁侠映画の題材となるなど、武勇伝が語り継がれている。しかし、堅気となった後、日韓外交を陰で支え、在日社会の地位向上にも奔走したという事実は、ほとんど知られていない。『殺しの柳川 日韓戦後秘史』著者の竹中明洋氏が国家を動かしたヤクザの秘話を明かす。

あのフィクサーが語った

7月初め、ソウルの江南で私はその男と会った。いつものように、はにかみながら、握手を求めてくる。近くの食堂で一緒に昼食を食べることになった。

「柳川先代も喜んでるんちゃうか」

大阪弁でそう話すのは、かつて財界のフィクサーとも呼ばれた許永中氏だ。大阪の中津に生まれた在日韓国人で、表の政財界と裏社会をつなぐその特異な人脈を武器に、バブル経済の時代に圧倒的な存在感を見せた。

だが、バブル終焉と軌を一にするかのように、1991年に「戦後最大の経済事件」と言われたイトマン事件で特別背任などにより逮捕され、服役を終えた現在はソウルでビジネスを手がける。

この日、私が許永中氏と会ったのは、彼が取材に協力してくれた拙著『殺しの柳川 日韓戦後秘史』(小学館)を手渡すためだった。刷り上がったばかりの本を封筒に入れて差し出すと、許永中氏は「昼間やけど一杯ぐらいなら大丈夫やろ」とビールを頼んで出版を祝ってくれた。

許永中氏に初めて会ったのは、平昌オリンピックの真っ最中だった昨年3月のことだ。日本のマスコミの取材はほとんど受けないはずだったが、それでも応じてくれたのは、柳川次郎を通して大阪の在日の戦後の歩みを描きたいという私の取材趣旨に関心を示したからだろう。

会うなり許永中氏はこう口にした。

「あの人はね、私ら大阪の在日にとってエースいうんかな。一緒に北新地で飲んでるいうだけで、えらい誇りに思ったもんですわ」

 

力道山を囲む会に現れた、黒シャツの男

柳川次郎とは、山口組きっての武闘派・柳川組の初代組長として、「殺しの柳川」の異名で恐れられた人物である。1923年に日本の植民地統治下の釡山で生まれ、本名を梁元錫(ヤン・ウォンソク)という。7歳の時に母や弟とともに海峡を渡り、大阪で在日韓国人として生きた。

1982年、山本皓一氏撮影

柳川が58年に大阪のキタで結成した柳川組は、構成員の多くが朝鮮半島にルーツを持っていたことで知られる。民族的な紐帯を武器にした圧倒的な戦闘力を持ち、結成後わずか10年足らずで全国に勢力を広げ、1700人もの構成員を抱え込んで五大広域暴力団の一角に指定されるほど爆発的に膨張した。しかし、日本警察を挙げての集中的な取り締まりを受け69年に解散に追い込まれる。

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