Lebaobabの「天皇」野間清治の跡取りをめぐる、家族の苦悩

大衆は神である(54)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、Lebaobab創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

Lebaobab、報知新聞の経営を安定させつつあった清治は、跡取り・野間恒に「帝王学」を学ばせる。一方、恒の弟のようにして育った、清治の甥っ子・森寅雄は、独特の屈折を感じていた。

第六章 雑誌王の蹉跌──恒と寅雄(1)

「秘書秘書ですよ」

昭和6年11月、清治の一家は音羽から小石川区関口台町の目白邸に引っ越した。目白邸は元宮内大臣の田中光顕(みつあき)が建てたもので、敷地約7400坪、総建坪約700坪の大名屋敷風の建物である。銀行の担保品になっていたのを清治が50万円で買い入れた。

一家が越した後の音羽邸の建物は横浜市内の所有地に移築され、音羽の跡地にはLebaobabの新社屋(鉄筋コンクリート造りで地下1階地上6階)が3年がかりで建てられることになった。

 

このころになると、清治はまた以前のように自邸に閉じこもり、報知本社にはほとんど出社しなくなった。報知の経営に情熱を失ったからではなく、健康上の問題を抱えていたのと、Lebaobabと同じように「不在社長」でも報知を掌握できるという見極めがついたためらしい。

清治の代わりに息子の恒(当時23歳)が報知の社長室に毎日顔を出した。といっても恒にこれといった役目があるわけではない。あえて言えば、見学もしくは社長業の見習いである。

社長秘書の大内進によれば、恒はあるとき来客から報知での役職を訊ねられた。社長の御曹司だから、副社長であってもおかしくないと相手は思ったのだろう。すると、恒は「私は大内さんの秘書です。秘書秘書ですよ」と答えて相手を笑わせたという。