神田松之丞が明かす「講談復活30年計画」

真打昇進への決意と覚悟

MATSUNOJO KANDA

神田 松之丞

2019.06.10 Mon

「その昔、西暦でいうと1840年頃の天保時代には、江戸に講釈場が200軒ほどあったといわれています。今に置き換えて考えれば町内に一つずつあったようなもので、これを復活させたいです。そのためには講談師をもっともっと増やしていく必要があります。東京だけで150人から200人くらいはいて欲しい。私も含め講談師が育つには時間がかかるので、30年間かけて進める計画です。これは私の願いというより、講談界全体の悲願だと思います」

2011年1月30日、初めて行ったコーヒーショップでの独演会。観客数は8人のみ。うち5人が親戚と友人で、先行きが不安で仕方なかったという。

それが今や日本全国を飛び回り、年間650席を超えるという人気ぶり。しかも数百人規模の会場で開催される独演会のチケットは即日完売、満員御礼は当たり前……と見事な躍進を遂げた。

「神田松之丞は絶滅寸前といわれていた講談界の救世主だ!」と称されていたのは少し前までの話。最早、日本伝統芸能界のニューヒーローといっても過言ではない。

そんな松之丞が挑むもの。それが「日本に講談の文化を復活させること」だ。たとえ、どれだけの時間がかかっても――。

* * *

講談は500年以上の歴史を持つ日本の伝統芸能の一つ。落語がオチに向かって登場人物のセリフを重ねていくことで成り立つ話芸であるのに対し、講談は主に講談師がストーリーテラーとして物語を展開する語り芸。といって単に朗読するだけではない。演者のリズミカルな語り口調と豊かな表現力、パパン、パンパン! と張扇を叩いての場面展開や音響効果でメリハリをつけ、さらには観客の臨場感を煽り、フィクションもノンフィクションであるかのように思わせてしまう。それこそが講談の魅力なのである。

「……と、こういう説明が必要な点でも、講談はまだまだマイナーな話芸なんです。10年前はもっと酷くて、そもそも落語家が全国に800人いるのに対して、講談師は十分の一以下しかいかなった。なぜかといえば人気がなかったから。なぜ人気がないのかといったら、面白くないというイメージが蔓延していたからです。でも私は講談には伸びしろがあると感じていたというか、大化けする可能性を落語以上に感じました。実際はそんな甘いもんじゃないんですがね、いずれにしても講談が魅力あるという点に着目した自分は褒めてあげたいです(笑)。今、私がやっているのは埋もれていた講談という話芸を共有したい、多くの人に知って頂きたい。すべての活動はそのためにやっております。だからこそ、講談以外の仕事にも遣り甲斐を感じます」

話芸に目覚めたのは高校時代。「ラジオ深夜便」で、昭和の名落語家・三遊亭圓生の『御神酒徳利』を聴いて思わず心を揺さぶられ、寄席に通うようになった。その後、大学浪人中に訪れた立川談志の独演会で『らくだ』という演目を聴いたのが運命の分岐点。全身の毛穴が開くほどに感動して、話芸の世界に身を置こうと決めたのだという。

「カルチャーショックを受けました。その後、大学には行くんですが、慎重だったというよりは、自分のお客さんとしての教科書を作ろうとしていたんですね。在学中は落語のみならず、談志師匠が好きだという講談をはじめ、浪曲、漫才、演劇、歌舞伎などあらゆる芸に生で触れることに意味を置きました。もちろん、演芸場に足を運んで。我ながら実にイヤな客でしたよ。シラッとしながら鑑賞していて、俺ならこうやるのにとか上から目線で思ってるという。でも私はこの時の経験を活かし、客席に自分が座っているという客観性を持って舞台に上がってます。いずれにしても語り芸で生きていくための『一人筋トレ』に励んだ4年間でしたね。自分が進むべき道の選択肢も広がりましたし」

入門先はシビアに選んだ

結果、落語ではなく、講談を選んだのはなぜなのか? と尋ねると、「最初は講談ってつまんないなと思ってたんですよ」と意外な言葉を口にした。

「落語を聴きに演芸場に行くと、一人ぐらい講談師も出てくる。それで自然と講談にもなじみが出てきたんですが……最初はつまらないなと思っていましたね。古典芸能ということで高尚なイメージがあるけれど、初めて聴く人が退屈してしまう芸というのはいかがなものかと。でも同時に自分の感性が未熟なのかなという自信のなさもあったので、講談を好きになるまで講談会に通い続けてみようと考えました。

これが不思議なもので、1年もすると耳が慣れてきて面白いなと感じるようになるんですよ。そんな矢先に六代目神田伯龍の『村井長庵・雨夜の裏田圃』に衝撃を受けて、コレだ! と。人を殺す時に雨に気を取られるという描写があって、『この感覚わかるわ』と共感するとともに、自分がやりたいのもこういうアンモラルな世界観を表現することだという気づきがあったというか。まぁ、アンモラルかどうかは演目によりますが、たまたまフィーリングの合う出し物に遭遇したというところに運命を感じます。就職する気は端からなかったので、講談師になろうと、そこに迷いはなかった。

でも臆病なので、入門先は考えに考えて、講談界の重鎮である三代目神田松鯉に決めました。「こっちが決めても、向こうがとるかは分からないんですが」(笑)。とにかく決めたんです。芸風が暖かいということが一つ。噂によれば、熱心に稽古をつけてくれるが考えを押しつけない教え方だというし。もちろん芸が素晴らしいというのが一番の決め手でしたが、この人しかいないと確信したんです」

そこでさっそく行動に移した。狙ったのは大師匠・神田山陽の命日である10月30日の上野広小路亭。記念公演と銘打って行われる寄席のあとなら断られることはあるまいという策略をめぐらせてのことだった。

「アポなしで楽屋を尋ねたところ、すでに師匠は帰ったあとでしたが、弟子の一人が『これ、師匠の電話番号だから』と。ずいぶんと親切だなと思ったんですけど、あの時、楽屋にいた先輩たちの誰もが、待ちに待った弟子入り志願を逃す手はないと考えていたのだと今ならはっきりとわかります。当時は講談師になりたいなんて若者はほとんどいなかったし、先輩たちも早く『下っ端』が欲しかったのでしょう(笑)。後日、師匠との面会が叶い、お人柄に触れて、この師匠と出会えたことは奇跡だと胸が高鳴りました」

前座時代を支えた「ケツを捲る力」

こうして07年11月、24歳で神田松鯉に入門し、師匠の身の回りのお世話をする前座としての毎日が始まったのだが……。

「最初のころは、辞めたいと幾度思ったことか。元来、私はコミュニ―ケーション下手なので、師匠や目上の方々に気の利いたことが言えないし、自分のことしか考えていなかったので、心配りもできなかったんです。着物の畳み方も覚えられず、人格否定かというほど叱られる毎日でした。でもある日、向いてないものは向いてないんだと達観して、最低限のことはするけど、怒られても無駄に落胆するのは止めようと決めたら、楽になりました。修行時代を切り抜けるのに必要なのは『ケツを捲る力』だということですね(笑)。

もっとも前座仕事の重要性は後で分かるのですが、当時は『今に見ていろ、絶対この状況はひっくり返るからな』と二宮金次郎状態でネタを覚え、少しでも上手くなりたいと寝る間を惜しんで一人稽古をしてました。師匠はずっと優しかったんですが、厳しい人もいましたから。でも今考えると、そんな気持ち悪い奴を置いといて頂いたんですから、周りの人の寛大さに頭が下がります。もっともその反骨精神が『慶安太平記』や『村井長庵』など連続ものにも挑み、前座時代に50席以上は覚えてたと思います。あれは自分の存在をかけた勝負でしたね」

自分の意思は貫いた日々

12年6月、29歳で二ツ目に昇進。徐々に注目を集めるようになると、翌年、落語芸術協会で同期の落語家10人と共にユニット「成金」を結成。15年には「読売杯争奪 突撃! 二ツ目バトル」で優勝……と、たちまち頭角を現した。

「上手くいきましたね。周囲の人が支えてくださったおかげですけど。つくづく私は運がいいんです。師匠はアメとムチを使い分けて忍耐強く接してくれましたが、昔は怖かったと聞きます。理不尽に厳しくされていたら挫折していたかもしれませんね。

日本の伝統文化が見直されているという時代の流れとか、講談界的にも絶妙なタイミングでした。私が入門した当時、講談師の6割を女性が占めていた。私は久々に生まれた待望の男の子だったので、ただチヤホヤされたんです」

とはいえ高座に出ると、そこには落語目当てのお客さんしかいないというアウェイ感との闘いが待ち受けていた。

「講談界の中で目立つのは簡単だっただろうと思う人がいるかもしれませんが、もともと講談は需要がなかったわけで、落語家の新人が活躍するよりハードルが高かったんです。

講談って落語よりもひとつの話が長いんです。1時間以上かかるものもざらにあって、たとえば『畔倉重四郎』は計19席からなる連続もので、かつて私は6日間連続公演をして読み切ったことがあります。それなのに、落語の寄席なんかで講談師に与えられる時間は、せいぜい10~15分程度。一本の話全部が出来るわけはないから、なんとかひとつの山場まで話を持っていって『続きはまたの機会に』というような感じでまとめるのが普通だったんです。

でも、それじゃあお客さんの心に『いやあ、いい話だった』とは残らないでしょう?  お客さんもそれが分かっているから、寄席に行くと、講談の時にトイレに行ったり、たばこを吸いに行ったりする人が多かった。

講談って面白いんだよ、と分かってもらうためには、ここから変えなきゃいけないと思いました。だから自分は、15分なら15分でひとつの話として前座の時代から完結するように工夫をしたんです。あとは、講談界では伝統的に前座には禁じられているマクラ(本編に入る前の雑談)をやってみたり……。新人にしては大胆な試みでしたが、もともとの題材は面白い話なので、短く話をまとめることで、『へえ、講談もなかなかなもんだね』と思ってくれるお客さんが増えたんです。

結果、お客さんの心を掴むことができれば、講談を知らない人でも聴く耳を持ってくれるのだという確かな手ごたえを感じました。うるさく言う人もいたと思いますが、師匠が庇ってくれたんです。それに乗じて、生意気にも『自分は初めて講談を聴く人に向けてやってるんだ!』なんて息巻いてましたね。今、考えると若気の至りですけど」

有名になるのは手段であって目的ではない

かくして松之丞の快進撃が始まった。巧みな芸はもちろんのこと、野心的な取り組みやその興行のうち方にも注目が集まり、講談師・神田松之丞の名は最初は口コミでじわりじわりと広がっていき、今に至る人気へと繋がっていくのだ。「松之丞 チケット」と検索してみてほしい。おそらくそのほとんどで「予定枚数終了」という文字が表示されているはずだ。

私は売れることを目指していたわけじゃないんですよ。有名になるのはあくまでも手段。なにかの賞を受賞することを目標にしている芸人もいるけれど、それは違うよなと思っています。なにかの賞を受賞するなんて、本質的にはどうでもいいことじゃないですか。それを使って、さらにどういう状況を作る、で、これからどうするの? その先の展開を考えるのが問われていると思います。私にしても、名前を知られるようになってからが勝負だと考えていたんです。だから、勝負はこれから、なんです。本当にまだまだです、何もかも。でも残念ながら、そこまで名前も世間に知られてないです。だからこのインタビューも無名のやつが偉そうにって、俯瞰でみてます(笑)」

(文・丸山あかね 撮影・丸山剛史 後編につづく)

神田 松之丞(かんだ まつのじょう)

講談師。1983年東京都生まれ。日本講談協会、落語芸術協会所属。2007年、三代目神田松鯉に入門。2012年、二ツ目昇進。「連続物」と言われる宮本武蔵全17席、慶安太平記全19席、村井長庵全12席、天保水滸伝、天明白浪伝全、畔倉重四郎、また「端物」と言われる数々の読み物を異例の早さで継承、持ちネタの数は10年で130を超え、独演会のチケットは即日完売、2020年2月、真打昇進と同時に六代神田伯山襲名予定。著作「"絶滅危惧職"講談師を生きる!」(新潮社・聞き手/杉江松恋)「神田松之丞 講談入門」(河出書房新社)ほか