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教育虐待の「見えない牢獄」から生還した若き物理学者の半生

回り道をすればこそ、ひとは輝く。

ひと学年200人弱でありながら、毎年東大合格者ランキングベスト10に名を連ねる神奈川県の名門校、栄光学園。この進学校でカリスマ数学教師として名を馳せつつ、この春、自ら非正規雇用を選んだ変わり者がいる。それが「イモニイ」こと井本陽久さん(49)だ。

教育ジャーナリストのおおたとしまささんは「イモニイ」の教育現場を5年以上追い続けてきた。2018年夏にニュースサイトに寄稿した記事は大きな反響を呼び、賞も受けた(『』)。「イモニイ」の活躍は雑誌「AERA」の巻頭特集にも取り上げられた。

さらにその「奇跡」の姿を取材し続け、おおたさんは一冊の本を上梓した。それが『』だ。

「イモニイ」の教師としての経験を聞く中で、おおたさんがどうしても直接会っておきたいと感じた人物がいた。「イモニイ」の教え子で、学校を中退してしまったRくんだ。

Rくんは幼少期から深刻な教育虐待を受けていた。「なのに、自分はあのとき、あいつに何もしてやれなかった……」。Rくんに対する懺悔にも似た思いが、「イモニイ」を「イモニイ」にしたという物語が、本の中では詳細に描かれている。

「Rくんが何を経験してきたのか、そしていま何を感じているのか。Rくんの口から直接聞きたい」。

教育虐待の実態についても長年取材を続けてきたおおたさんは、そう思い、Rくんのもとを訪れた。

 

SAPIX、TAP、啓明舎……
4つの中学受験塾をかけもちで通った

東大の理系の研究室。30歳を過ぎたばかりの研究員が出迎えてくれた。この研究室に来て7年目。つい先日、博士号を取得したという。現在の彼を見れば、どこからどう見ても”勝ち組”。しかし彼の歩んできた道のりは、決して平坦ではなかった。むしろ、壮絶な悪路だった。

教育熱心すぎる母親に育てられ、幼少期から過度の勉強をさせられてきた。反動で、せっかく合格した名門中高一貫校を退学、ひきこもり生活も経験した。弟は、成人してから心の病を発症。両親の口論は絶えず、父親は晩年、廊下で寝ていた。

「めちゃくちゃな家族ですよね。普通の家族が羨ましいなって思うことはありますよ」。そう言いながら笑う彼の横顔には、30代とは思えない達観がある。ここでは「Rさん」と呼ぶ。

横浜で生まれ育った。都内の有名私立幼稚園をお受験し、見事合格。小学校で再びお受験し、横浜の私立小学校へ。クラスの8割が中学受験最難関校に進学するような学校だった。でも、小学生のころのRさんは、常に寂しさを感じていた。「マミコ」という飼い猫に、「なんで生きてるんだろうね?」と語りかけたのをいまでも覚えている。

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小学2年生ごろから、中学受験塾に通い始める。SAPIX、TAP、啓明舎、三田塾と、当時評判だった4つの塾を同時並行で通わされた。その代わり家での勉強時間はゼロ。でも、Rさんは授業を聞いているだけでテストが解けた。まわりからは「なんだこいつ?」という目で見られていた。

Rさんは、活発な気質をもった子供だった。小学生のころからよく家出した。小学校を抜け出して、独りで熱海まで行ってしまったこともある。塾はしょっちゅうサボっていた。当然家に連絡が行き、帰宅後父親に平手で殴られる。そのときには食事も与えてもらえなかった。

長く詰問されたあと、必死に謝り倒すことでなんとか許してもらえた。すると、ようやくおいしい食事を出してもらえた。それが、母親からの愛情を感じる唯一の瞬間だった。食事を終え、独り、寝床につく。布団の中で「お母さん、大好き」と泣きながら、絞り出すように自分に言い聞かせていた。

「そのくり返しでしたよ。サボればまた嫌な時間がやってくるってわかっているのに、それでもなぜかサボるんですよね。常に不安定な日々でした」

塾をサボって立ち寄った本屋で、当時ブームとなっていたホーキング博士の本を手に取ると、宇宙の起源について書かれていた。宇宙の始まりがわかれば、「なんで生きているんだろうね?」という問いの答えもわかるかもしれない。物理学に興味をもった瞬間だった。

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