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これが戦争の原因か…野中広務が感じた「一色に染まる」日本人の怖さ

同調を強いられ、批判は抑圧された
今年1月26日に1周忌を迎える故・野中広務氏。強面なイメージが強いが、戦争を憎み、生涯にわたって平和を唱え続けた政治家でもあった。それゆえか、「野中氏のような政治家が今の自民党にいれば…」と嘆く政界関係者は多い。

そんな野中氏が徹底した「反戦」思想をモットーとしたのは、自身の戦争体験がきっかけだった(前回記事「いま見直すべき、野中広務の「反戦」思想を形成した戦時期の経験」)。旧制中学に進学後、軍事教練や農作業ばかりが強いられる戦時体制下の「教育」に対し、若き日の野中氏は疑念を募らせていく。彼の「政治家としての原点」となった、ある出来事とは――。

弁論大会で吐き出した「異論」

昭和17年、園部中学で弁論大会が開催された。野中は、これから社会にどう貢献するべきかなどについて語っているうちに、日頃の疑問がこみ上げてきた。いくらかの批判の気持ちを込めて、こう発言した。

「学生の本分は学問ではないでしょうか。しかし、我々は毎日、竹槍訓練と農作業ばかりしています……」

先を続けようとすると、すぐさま、聞いていた配属将校の怒声が響いた。

「停止!停止!降壇しろ!」

野中は、その将校と、もう一人の教師に演壇から引きずり下ろされた。

後に野中は、「あの弁論大会が政治家としての原点だった」(『リベラルタイム』2008年9月号)と語っている。

権力が作り出した強圧的な体制下で、社会全体が「こういう時代だから仕方がない」と追随する時代に、同調を強いる空気に対してまず違和感を抱くという感性は、野中の後の政治姿勢にも一貫する。

弁論大会は、以後の野中の価値判断の羅針盤となったと言えるだろう。

そして、思ったことを直截簡明に口に出すという点は、よかれ悪しかれ、野中の否応ない性分だ。その気概と発信力が、状況を切り拓き、後の権力闘争を生き抜くための武器となったことも確かだろう。

弁論大会での行動には、野中の本質が現れていたのである。

 

しかし若き日の野中の資質は、教育によってすぐさま矯正された。

演説は、配属将校と教師から厳しく叱責され、周囲の生徒からも白い目で見られた。野中は、「批判は許されない、いけないことなんだ」と改めて実感したという。

野中が旧制中学を卒業する1943年の夏、朝日新聞は「学窓から戦場へ」という企画記事を連載している。

学窓から戦場へ――それはただ一直線に通じているのだ。そしていま若き悲憤は大和魂に徹したアッツ島の勇士を追って――我こそはの闘魂を漲らせている

このような記事は、いかに国全体が学生の兵士化を促していたかのあらわれであろう。メディアもまた戦争遂行国家に極めて従順であり、その宣伝を買って出ていたのである。

政府が学生の兵士化を進める時代潮流の中で、野中はまたその価値観を受け入れ、軍事教練に励み、国のために死ぬことが男子の本懐なのだと自らに言い聞かせるようになった。

1943年、野中は旧制中学を卒業し大阪の国鉄に就職したが、召集令状、いわゆる「赤紙」を一日千秋の思いで待ち続けた。

知り合いが召集され、「バンザイ!バンザイ!」と送られて戦地に向かう姿を見ては、「どうして俺のところには来ないのだろう」と嘆いた。

ようやく、その赤紙が届いたのは、アメリカ軍による本土攻撃が計画されていた戦争末期、1945年1月だった。「これで俺も一人前になった」と、野中は小躍りして喜んだ。

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