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いま見直すべき、野中広務の「反戦」思想を形成した戦時期の経験

「軍国青年」として成長したが…
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今年1月26日に、1周忌を迎える政治家・野中広務。強面のイメージの強い野中は、一方で徹底的に戦争を憎み、平和を愛し、沖縄問題にも積極的に取り組んだ(前回記事「「影の総理」野中広務はなぜ権力闘争を挑み続けたのか」。その「反戦」思想を形成したのが、青年期の軍隊での辛苦な経験の数々であった。彼自身が目撃し、身をもって体感した、日本を戦争に導いたものの正体とは。

敗戦後の自決を制止される

「貴様ら! 何をしとるか!」

敗戦直後の1945(昭和20)年8月17日、高知県桂浜の海岸で、野中ら兵士5名は、馬に乗って駆けつけてきた大西清美少尉に、そう怒鳴られながら蹴りつけられ、殴られた。

この日、敗戦を知った野中らは「いさぎよく死のう」と仲間5人で部隊近くの桂浜に向かい、手にしていた手榴弾で、まさに自決を図ろうとしていた。

これを聞きつけた大西少尉は急いで野中らを見つけ出し、思いとどまらせようとして殴ったのである。そしてこう続けた。

「お前たち、死ぬほどの勇気があるならば、こんな間違った戦争を始めた東條英機がまだ東京におるから、その東條を殺してこい。それから死んだって遅くない。それで命長らえたら、この国のために働け!」

野中たちは、その剣幕に気圧されて部隊に戻った。

「今、この命があるのは、大西さんのおかげなんです」

野中は戦争の話になると、必ずと言っていいほど大西少尉とのエピソードに触れた。

野中は1945年3月に召集され、本土決戦に備えて結成された第55軍の第155師団歩兵第452連隊、通称「護土22756部隊」に配属された。この部隊は、香川県丸亀で編制された。

新兵としての訓練は過酷であり、朝7時に起床、すぐさま練兵場に集合し、重い背嚢を負って10キロ以上も離れた金毘羅神社まで連日のように走らされた。倒れれば水をかけられ、蹴飛ばされ、訓練中にミスをおかせば整列して全員が殴られた。

野中が大西少尉と出会ったのは、その訓練が終わった1945年5月下旬、幹部候補生になるための試験を受けろと言われて合格し、中国の保定にあった予備士官学校に転属を命じられた頃だったという。

大西少尉

大西少尉が突然、部隊に現れて集合がかかった。少尉といえば将校であり、野中ら新米兵士からすれば手も届かないほど上の階級だ。幹部候補生の試験に合格した野中たちが緊張して整列すると、大西少尉はいきなりこう言った。

「お前ら戦陣訓を持っておるか」

戦陣訓」とは、1941年、陸軍大臣だった東條英機が通達した訓諭だ。

中国との戦争が泥沼化するにしたがって、中国に駐留する将兵たちの士気は低下し、軍紀の乱れが目立ち始めた。そのため綱紀粛正を期して準備されたもので、戦場における軍人の心得が列挙されている。

その中に、次の一節がある。

生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ

この「生きることに執着して捕虜の恥辱にまみれてはいけない、死んで罪人の汚名を残してはならない」という命令だ。

同じく戦陣訓にある「従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」という価値観と相まって人々を縛りつけ、人命軽視のバンザイ突撃や民間人を含めた集団自決につながったという批判が、主に戦後になってから噴出した。

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