お化けや霊の話をまじめに語るのは、ただの反知性主義なのか?

見えるものは見えると書いた小林秀雄
知識人はお化けなんて信じない。そう思う人にとって、あの小林秀雄が霊的な現象について書いた文章を読むと驚愕するだろう。小林は亡くなった母親が蛍になり飛んでいたと思った。当たり前だったことを当たり前に正直に書けばそうなると小林は書いた。そのように現象そのものを具体的に見ることを、言語化や数値化が妨げてきたと、の著者・適菜収氏は言う。その結果、私たちはどんな間違いを犯しているのか? 本書の抜粋をお届けしよう。
 

死ななかったのは母が守ってくれたから

昭和二一年の秋、小林は国電の水道橋駅のプラットホームから落下して死にかけた。神田の「セレネ」という居酒屋で酒を飲み、そこで一升瓶を譲ってもらい、水道橋駅に出た。当時、駅のプラットホームの壁は、鉄骨に丸太を括っただけの粗末なものだった。小林はその丸太の隙間から一升瓶を抱えたまま一〇メートル下の空き地に転落した。終戦直後なので、周りには鉄材が積まれていた。

知らせを受けた女房の喜代美は、命は助かったとしても重傷を負ったと思い、目の前が暗くなった。数日後に妹の潤子が見舞いに行くと、小林は元気で寝床の上に座っていたという。「よかったわね。酔っていたからかえってよかったのかしら」と潤子が言うと、小林は「そうかもしれないが、おれにはおふくろが守ってくれたとしか思えないね」と真面目に答えたそうな。

小林は中断したベルグソン論「感想」で終戦の翌年に死んだ母親について書いている。

母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。(中略)仏に上げる蠟燭(ろうそく)を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷(おうぎがやつ)の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。──「感想」

「おっかさんという蛍が飛んでいた」

小林は「近代人」である読者に説明する。読者はこのエピソードを感傷だと一笑に付すことができるだろう、でも、自分だって「感傷にすぎない」と考えることはできる、と。

だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。──「感想」

「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」という話は、近代人は理解できない。「おっかさん」は蛍ではないからだ。だから、蛍の光と母親の魂のイメージを心の中で重ね合わせたのだと解釈する。

私にも似たような体験がある。一九歳の頃、新宿区早稲田から落合に引っ越したばかりで、電話線はまだ引いていなかった。荷物を押し分けるようにして布団を敷き、寝た。その晩、母方の祖母が夢に出てきた。それまで祖母が夢に出てくるようなことはなかったので、「亡くなったのかもしれないな」と夢の中で思った。

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