日本のエリート学生が「中国の論理」に染まっていたことへの危機感

行き過ぎた政治タブー化の副作用
阿古 智子 プロフィール

民主主義の価値を認識していない日本の若者

まるで、中国政府のスポークスパーソンの説明かと錯覚するような学生たちの発表を聞いて、どうして日本で生まれ育った学生までもが、このような内容に違和感を覚えないのか不思議に思った。

この分科会だけでなく他でも、学生たちは耳を疑うようなことを言っていた。

例えば、「日本では、中国の人々が厳しいサイバースペースの統制を不満に感じていると分析するが、そのような固定観念で見てはいけない。効率的に社会に悪影響を与えるサイトを遮断し、著作権法に違反する行為を取り締まるなど、中国は日本ができていないことをやっている」と。

「日本のウェブサイトはポルノだらけで、ヘイトスピーチも効果的に取り締まっていない。中国は、社会の安定を維持することに最大限の配慮をしている」のだと。

討論会終了後に、たくさんの学生が私の元に来て質問し、アドバイスを求めた。中国の学生が2人は、国民国家の民族アイデンティティをどう考えればよいのか、社会的弱者を理解するためのフィールドワークをどう行ったらよいのか、オススメの本はあるかなど、私に質問した。

彼らが帰った後も日本の学生たちは熱心で、教室が閉まるまで残り、私に意見を求めた。日本といっても、親が中国人で、日本で育った学生もいるし、「日本人」「中国人」と単純な分類は禁物なのだが。

学生たちは、私や他のコメンテーターの指摘を受けて、今回の発表の問題点に気付いたようだった。実際のところ、学生たちは討論会の準備にあまり時間を割けず、議論の流れを中国の学生たちに任せたところが大きかったという。大人数のグループで、母語ではない英語を使い、発表を準備するのが容易ではないことは想像できる。

さらに、学生はこのようなことも言っていた。どこの国にも、地域にも、それぞれの状況に適した民主、自由、権利、文化があると考え、相対的にそれらを捉えると、政治制度について議論しづらくなるのだと。

学生たちのこのような対応は、規制が厳しい中国の事情を考え、中国の学生に配慮してのことなのかと思ったが、そうでもないようだ。

 

日本の一部の商業メディアは、中国や韓国の負の側面ばかりを取り上げ、見下すような視点から、面白おかしく書き立てる。目も当てられないようなヘイトスピーチも横行している。良識を保ち、他者を理解しようとする学生たちの姿勢もあるのだろう。

しかし、学生たちもレベルの低い商業メディア同様、「日本は」「中国は」と国単位で物を見すぎてしまうから、このような議論に終始してしまうのではないか。

自らの体験を通しての発見や、具体的な事例研究に基づく分析を丁寧に行えば、拙速に、短絡的な結論を出すことはなくなるはずだ。

さらに、今回日本の学生に関して強く感じたのは、戦後、日本が懸命に築いてきた民主主義や言論の自由の価値を、あまり理解していないということだ。

今の日本が平和すぎるから、当たり前のようにある権利や自由に、ありがたみを感じないのだろうか。