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「サリバン通り181番地の奇怪現象」を支え続けたある男の一生

「宝探し」をめぐる考察 第6回
米コロンビア大学を卒業後、ゴールドマン・サックス証券、国外ヘッジファンドを経て、現在、株式会社CTBの代表を務める筆者が、社会のアクティビティにひそむ「宝探し的虚構」を解き明かす連続シリーズ。最終回は、NYの小劇場で42年間に渡り繰り返し上演された、あるミュージカルについて――。

⇒第1回【社会にはびこる「遊戯の構造」を検証すべき時がきた
⇒第2回【金融業界人の正気を保つ「利益確定」なるマジックワード
⇒第3回【美術作品から「作者」と「額縁」を取り除いたあとに残るもの
⇒第4回【ロッドマンが殿堂入りの舞台で演じた「大失敗」について
⇒第5回【ゴーギャンは本当に「文明を逃れて南太平洋を目指した」のか

物語からの覚醒

心地よい物語の微睡みから目覚めると、目の前で一台の装置が稼働していた。これまで5回にわたって検証してきた、「宝探し」という古典的な物語を、装置は次から次へと生産している。

宝探しといえば、初めはデパートの屋上で催される潮干狩りのイベントのように、他愛もない遊戯に過ぎなかった。だが微睡みから覚醒した今、目の前で静かに稼働する装置を注視すると、それはなにやら不吉な運動を繰り返している。

なぜなら、物語を生産する装置は、現実に起きていることや生きている人を、物語の内容に貢献するか否かという貧しい基準に従って選別している。そして、あらゆるコモディティがそうであるように、物語の内容は消費者の需要を正確に反映するのだから、装置は、現実の出来事や人々を、かかる需要を満たすための手段として処理することを躊躇いはしない。

世界を、そして他人を、利用価値に準じて選別し、饒舌か沈黙のいずれかに閉じ込める装置の暴力を、我々は不吉に思うのだ。

だが、こうして生産される物語の多くは、それなりに刺激的であり、時に感動的でさえあるのだから、物語そのものを否定しても仕方があるまい。問題は、物語が滑らかな流動性を確保する代償として、我々がいったい何を失っているのかということなのだ。

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これまで検証してきたように、宝探しの物語は、恣意的に生産された経緯にかかわらず、その存在が必然であるかのような涼しい顔で社会に流通している。そのため、物語を次々に消費する我々は、いつしか装置の存在を忘れ、まるで物語が生産される以前の時間などなかったかのような錯覚に陥ってしまう。

辺りを見渡せば、我々の需要を満足させる、程よく刺激的で、しかし絶望的な展開を決まって免れる物語が潤沢に供給されている。この流動性に身を委ねた状態が、物語の心地よい微睡みに他ならない。

だが我々が、もし微睡みに抗い、物語が生産される以前の時間を思い起こすならば、そこには、首尾一貫した粗筋に沿って整理され、流通し得る商品としてパッケージされる以前の出来事や人が存在するだろう。スポーツの物語ではなく、スポーツの身体性が。資本市場の物語ではなく、投資に伴う忌々しい目眩が。そして、物語としての異国ではなく、途方もない異物として頑なに商品化を拒む異国が、そこに存在するはずだ。

 

こうした生々しいものとの接触は、程よい帯域幅に収められた刺激ではなく、あくまで過剰な快感や痛みを伴う。微睡みに身を委ねる時、我々はこの過剰さを体感する権利を喪失し、かかる代償と引き換えに、初めて装置が生産する物語を消費するのだ。

無論、出来事そのものではなく、出来事の物語と接することで、過剰な痛みを免れるのだから、現実に対する防具として機能する物語は、やはり擁護されなければならない。

だが、程よく刺激的でありながら、最後は決まって予定調和の側に、すなわち現状維持に加担する物語の氾濫を退屈に思う時、そして、物語の生産過程で装置が働く暴力を不吉に思う時、我々は、やはり物語からの覚醒を試みるだろう。

では、物語の滑らかな流動性から逸脱するには、いったいどのような身振りに転じれば良いのか?

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